百太郎溝 球磨郡の多良木町松下の取入口から多良木町の南を通り、あさぎり町岡原(旧岡原村)の中央を横断しあさぎり町上(旧上村)から錦町までの総延長18.9kmの灌漑用水路が百太郎溝です。
 約300年前に農民の手によって工事が進められ難工事の末に完成したのですが、それについてある物語が伝えられているのでここに紹介します。


 昔、農民達が水不足の原野に溝を作って球磨川の水を引き入れ立派な耕地にしたいと考えたが、溝をつくるにも球磨川の急流をせき止めて水を流入させるとなると大変な事業である。
 ところが工事を始めたところせっかく堰をつくっても大洪水で流失するなどして2回、3回と壊れてしまい失敗をくりかえしていた。
 数年がたったある年の秋祭りの前夜、世話人の寝ている枕元に水神様が現れて、おごそかに「明日の祭りに、はかまに横縞のツギを当てた男が参詣する。その男を堰をつくる時の人柱にすればよい。」と申し渡した。
 世話人は驚いて目がさめ、早速その事を村の人に話し、翌日の祭りで参詣する男達をよく見ていると、果たせるかな水神様のお告げのとおり縞のツギ当てのはかまをはいた男が現れた。
 この男がすなわち百太郎であった。農民達は役所にもう一度堰を築くことと、さらに人柱を立てることの許しを得て工事は再び始められた。
 冬も近づき球磨川の水が枯れた時期をみて、農民達は最後の希望をかけて懸命の努力をし、石が運ばれ太い材木が横たえられ工事は進められた。
 この工事にまじめに働いていた百太郎は、水神様のお告げだと言うので人柱になる事を素直に承知した。
旧百太郎堰跡 この百太郎は日頃から正直者で、年老いた母をいたわり孝心のつよ男であったが、哀れにもその母親を残して尊い人柱となった。
 堰の門の真中の大石柱、その下に胸に手を組んで観念のまなこを閉じた百太郎は生きたまま柱の下に埋められてしまった。
 農民達は、このあわれ人柱となった百太郎の姿に手を合わせ念仏を唱えつつすすり泣いた。
 尊い人柱のため、これまで幾度となく押し流されていた堰も今回は立派に出来あがり溝も完成したのである。
 農民達も大雨の降るごとに人柱となった百太郎を思い起こして感謝し、この溝を百太郎溝と呼ぶようになった。